昭和50年05月21日 朝の御理解
御理解 第13節
「神は向こう倍力の徳を授ける。」
お徳を授けて下さると云う事は、どう云う事であろうか。神は向こう倍力と仰る。神様の心に適う生き方、惟は必ずしも神様を拝むとか、お参をりするとかというだけではない。神は向かう倍力の徳と。どう云う事に向かうかと言うと、愈々神様の心に添い奉ると云う事に焦点を置く事であり、愈々神様の心に適うと云う事を解らせて頂いたら、それを元気な心で実行して行くと云う事が、神様へ向かう事になるです。
只お参りとかいろんな御用をさせて貰うとか云う様な事で、神様がお徳を下さると云う事ではない。それはそう云う意味でなら、なら皆さんでも毎朝こうして神へ向こうて参って見えておられます。又御用もなさっておられます。ならその人達がそのあなた方が、例えば百の力で百の思いでこちらへ向かうて来られるのですから、なら神様は二百の徳を皆さんに授けておられるかというと、おかげは授けておられても、お徳を授けられておるという人は、大変少ないです。
ですから参りました拝みましたが、只熱心であるというだけではおかげは受けても、向かう倍力の徳と云う事にはならないと思う。只本当に神様の御心に適い祀る信心ね、本当に焦点を間違えないでの信心、真の信心へ向かっての信心。それはです例えば本当に惟位の、信心しか出来ておらんのにかかわらず、神様は此の様にも広大なおかげを下さる、と云う様なおかげが神様が正しく倍力の徳を授けて下さった、その倍力の徳に対するおかげであります。只お参りしとります、拝んどりますと。
それは自分の願い事、それが成就する事の為に唯一生懸命、神様へ打ち向うておるのでありますから、それは神様へ打ち向かうのではなくて、おかげに打ち向うておるのですから、それが徳にならんのです。倍力の徳にならんのです。お徳を受ける事はどう云う事かというと、第一心配がなくなる不安がなくなる。身に徳を受ければ心配はないと教祖様は仰っとる。身に徳を受ければ、人間の幸福の様々な条件が一つ一つ足ろうて来る。惟は一つ一つ足ろうて来るのです。
健康の徳金銭の徳、物の徳、言うなら人間幸福の条件がその様にして足ろうて行く。そういうおかげを頂く心の上には、徳を受ければ心配はないと言われる。心の中に取り越し苦労もなければ心配もない。世の中に怖いと云う物がない。だから神徳とは力であると同時に光でもある。どういう力かというと、人間の条件の全て、お金ならお金を此処に集める力、物なら物を此処に集める力、さそれを支える力、同時に神徳を受ければ心配はない。言わば不安はない。
先の事が真っ暗と云う事でなくて、どんな真っ暗な所にあっても、心の光と云う物がありますから、怖くもなかれば不安もないと云う事になるのです。お徳という大変な功徳と云う物が感じられる。それが御神徳です、如何に神徳の様にしとっても、その人が不健康であったり、貧乏であったり、いろんな事に不自由しとられて、いうならば清貧に甘んじておられると言った様なのでは、御神徳ではありません。
同時に神徳と云う事は、天地の事が自由になるかと云う様なお徳も段々備わって来る。だからそう云う物を皆さんが自分の信心の上に感じられておるならば、それはお徳です、お徳を受けられよるとです。それが愈々すっきりと本当な物になっ行く事を、言わば楽しみに信心が出来る訳です。先ずは神は向かうと仰るから、只神様に向かって拝むとか、祈念するとかお参りすると云う事ではない。神は向かう倍力、向かう事を神様のお心に適う事に向かうのである。ね。
例えばお参りをしとらなくても、自分の行いそのものが、神の気感に適えばいいのである。只問題はそこでです、我流になりますと自分は悪い事をしとらんからと、云った様な事をよく申しますけれども、自分は正直自分は悪い事も何もせんのにどうしてこんなに不幸が続くじゃろうかと、それは不幸な事が続く筈はないのです。やっぱりほんな事じゃないからです。だからその本当な事を教えて頂くのが、やはりお参りをする。御教えを頂くと云う事にならなければ、本当な事は解りません。
なら解ったからというて、それを行じなかったら、矢張り神に向かう事にはなりません。神様に向かって一歩一歩、言うなら神に近づいて行くと云う事なのであります。神に向かうと云う事は。だから神様の心を体得して、その神様の心と同じ様な心になろうと精進する事が神に向かうのです。神様へ向かって一歩一歩前進して行く。昨日は西原教会の記念御大祭に併せて、二十五年の開教二十五年の記念祭がありました、此処からも若先生と九名の方達がおかげを頂いとられます。
これは本当にあちらの神様が喜びなさったろうと私は思いました。まあ七、八十名の御参拝でしたろうか、御広前が小さいですから、もうぎっしりだったと云う事です。その中に合楽の御信者さん達が、まぁ約十分の一位お参りしとったという事になります。本当に私しは有難いなあと思いました。本当に向こうの先生も喜んで下さっただろう、神様も喜んで下さっただろうと思います。
もう教会同志でお参りすると云う事、先生方もああしてお祭りに斎員に出ますから、もう私がこうして動きませんから、若先生が代わりに行きます。ですから言うならば、お付き合いであります。教会同志の付き合い、ですからそれは本当の信心と云う事じゃない訳ですお付き合いです。二十五年という祝いのお祭りがあるから、まこちらからお祝いに行くという。それは普通でいう人間のあちらからああして貰うたから、こちらからも返さんならんという、言うなら義理があってお参りをするのです。
けれども折角お参りするなら義理とかばりではなくて、やっぱりそこに思いを込めたお参りがしたいのですけど、中々そ云う訳には参りません。私は他所の大祭には何時も御無礼しとりますけど、記念祭だけ位はまそれこそお付き合い。それこそ義理にでも行かねばいけないとこう思ってます。それで神様にその事をお願いさせて頂きました、前の晩に。そしたら花束を贈呈する時にこうなん花を包んでこうやってあげましょう、あの花を一輪頂いて、それで紙でこう包んであるのを。
この花を見て下さいと言わんばかりに、紙をこうこうめくってあのう捧げる所を頂きました。どう云う事だろうかと、したらあのう包んでと頂きました。紙に包んでという事を頂きました。だからはぁこりゃお包みの方と思いましたから、あのう普通お包みの方は決まってます。何千円なら何千円と云う風に、けれども私はその倍額のお初穂を所謂お包みをして託けました。
あら今日は記念祭なのに大坪先生は見えとらん。若先生はお祭り仕えに来て頂いとるばってん、何処でん来なさるとにどうして来なされんじゃろうかと思いなさったかと、まあ思う暇も無かったろうけれど忙しいから、けれども私が行かなかった事は、私しが見えとらんなあと思いなさっただろうとこう思うです。けれども只人見せに只こうやって、私しはあなた方の記念祭のお祝いに信者はこげん連れてこげんして来ましたよと、その見せる為に行くのでは馬鹿らしいじゃない。
神様がね、と私くしに教えて下さったんじゃないじゃろうか。そして真心を込めてお包みにせよと。ならまぁゆうべならゆうべお初穂の整理があったと致しましょうかね、どこどこの教会の余所の教会から来たのは全部別に致します。又お返しせんならんから、所が合楽のだけは何処のよりもお初穂が多かった。はぁ何とはなしにそれこそ余韻があるですね。奥ゆかしいです。
体は行っとらんばってん、包みがあるね。そりゃもう私の代わりに若先生が行っとりますから、私はそういう生き方が神へ向かう事だと思うですね。私は是からは、だから何処の教会の場合でもそう云う風にしょうと思う。体は行かんでもお初穂だけけは真心込めて、ね。例えば余所が百円なら二百円、余所が二百円なら五百円と云う風にです、思いを込めて所謂お包みで行こうと思いました。ね。
そこにはその人は解らんのだけれどもです、そこの神様と教会長先生だけは開けなさる時に、ああ合楽は中々、形はどうでも中身はこんなに素晴らしいと思いなさら向こうも信心になられるだろう。こちらの気持ちも受け取って頂くその気分が違う。そういう私は生き方がですね、神へ向かう事じゃないかと、形じゃない、思いを込めると言う事。昨日高橋さんが帰って見えられましてから、今日はとても良いお話を頂いた。
高宮の教会長先生のお話、まだお若いのにようあんなにお話がお出来になるというて、感心して私くしに一通り話て下さった。お若いというても、もう四十から過ぎにはなられるかも知れません。お父さんが満州のハルピンに布教なさった時分のお話しから、お父さんの一代記と云った様な感じでお話をなさったそうですが。その中にそれこそあちらから引き上げて来て何んにもない、惟は私と同じ様な感じです。
けれどもお道の教師ですから、先ずは御本部行って、惟から後の身の振り方を御相談なさったけれども、本部としても当時どうもしてあげる訳に行かなかった。沢山の引き上げ教師に対して、一々どうと云う事が出来なかっただから、まあ何としてでも食い繋ぎ、言うなら食べて行くだけの何かをしよってくれ。その内に道が付くだろうからと云った様な事だったらしい。
それで大体が商売人の出であんないますから、色々お商売をなさった。いうならばまぁそれこそ食べるに食がないといった様な時にです。親教会が奉天です。今津先生と確か申し上げましたか、その今津先生の為に、毎日一食ねもう子供には、家内には自分は食べなくても親先生の為にお弁当を一食作られたという話を聞きまして、私は大変感動しました。ほんなごと人の段じゃなか。
自分が食べる事が大事という時代に、しかも内地におってちゃんとその基礎を持っとる人ならよかけれども、外地から引き上げて来て何をしょう様子もない。食べ物というてもそれこそ遅配、欠配のどうにも出来ない時にですよね。親先生が頂かれるのは一食だけではあるけれども、お弁当を別に、子供には家内には、自分は言わば自分の身を削り心を削りして、お弁当を用意されたと云う事です。
私はその話を聞いてからもう本当感動しました。そして今朝のこの御理解を頂いてです、そういう行き方こそお徳を受けられるんだなあと、高橋さんが言っとられました。もう先生今日は驚きましたち。あの若さで、あんな若い先生お話が必ず教学的な理屈っぽい話になるのにも係らず、最後に兎に角信心さして貰うてお徳を頂かなければ、御神徳を受けなければ、人間の本当の幸せにはなれないと云う事を説かれたと云う事を聞いて、感心して私に話して下さった。
私は他の所の話は、只其処ん所はです、そう言う自分は食べんなでも親に対する親先生に対する、そういう思いがお徳になって、そしてなら福岡ではまあ一番御比礼を受けておられるだろうと思う位に、御比礼を受けられたと云う事です。やっぱりお徳を受けられたね。だからほら、神様を拝むだとか参るだとかじゃないでしょうが。親先生のお弁当をそれこそ今頃なら、問題じゃないけれども、食べるに食がない時に、親先生のお弁当だけは、お一人前ちゃんと別にとったという事ですから。
いうならば親先生に向かわれた弁当に向かわれたわけです。けどそれが打ち向かうという事なんです。神は打ち向かう倍力の徳を授ける。だからそりゃ例えば弁当は一食ですから、一合か一合五勺の米ではあったろうけれども、昨日のお話を聞かせて貰うと、二十人位のまぁ教会家族だそうですけれども、ああいう町の真ん中におって米一粒買いませんと云う様なお徳になっとる。とても倍力所じゃない百倍所じゃないです。
福岡の町のまぁ家当たりの田園教会で、田舎におるならです、まあ沢山お米が集まって来ると言う事も言えるけれども、福岡の町の真ん中におってです、それこそもう二十数年間、あちらもなりましょうが、その間しかも二十何人の家族の者が一粒のお米も買う事を致しませんと云う様なおかげを受けると云う事が、もう徳がそう現れとる事が解るでしょうが。
昨日一昨日でした吉井の吉松さんのお導きで東京の方が参って見えました。どう云う事をなさるか解らん、中々品の良いもう五十、やがて六十になられるかも知れません年配の方でした。私は一生懸命にお道の話をさして頂いた。どうして此の人はほんに又参って来るかどうか解らんとですからね、東京へ又帰らされにゃならんとじゃけん。それに一生懸命神様があのーお話をして下さる。又話をすると今度は求められる。だからそれに対してお答えさして貰う。大変感動して帰られた。
それから裏の方をこう回られて、西岡先生の部屋で又暫くお話を頂かれて、あちらで話された事で御座います。それを昨日西岡先生から聞かせて貰った。昨日吉松さんもそう云う事であったからお礼に来て見えてから大変な喜びであった。大変な感動でした。その感動のあまり宿に帰られてその実感をその詠を作っとられます。その詠を親先生に捧げてくれと言うて、言われますから持って来たと言う訳なんです。
矢張り好きな方らしいんですね。何か信心はしなさらんけれども、信心宗教的な物が矢張り好きなんです。天理教の今の教主と云う方にもお会いして、成程天理教がああして繁盛する、その元と言うな物を例えば天理教でいう、あのう御陽気と言った様な物は素、晴らしい事だ云う風にと感じました。一番つまらんのは、創価学会の池田大作に会うた時が一番つまらんちゅて話されたそうです。素晴らしい頭脳の持ち主らしいですけれども、自分の信心はない。
只ね仏教の教典の研究者であり、云うならば法華経の説明だけはもう大変詳しくされたけれども、自分が頂いとる自分が心に此の様に喜びを開いておるという話は全然しなかったが。池田大作が一番つまらんじゃった。あらゆるいろんな宗教の教主、まぁそれこそ生神様と言われる様な方達にお会いしたけれどもです、こちらの先生にお会いして、この世にこう云う人が居るじゃろうかと思うたち。ですからあそこに座って動かずにおったら先生が次々にお話をして下さって。
この世にこういう人が御座るじゃろうかと思うたというて、感動を西岡先生の所で話された。西岡先生も一生懸命ここの話をなさった。その中にですもう惟は去年でしたかね、頂きました神様から頂いた御教えの中に、人力に見切りを付けて神力にね(神様の力)縋れ人力に見切りを付けて神力に縋れ、人力自ずから湧くという御教えを頂いたと云う事を、西岡先生が話たんです。
もうそれを頂いたらもうびっくりされたそです。どういう例えば釈迦でもキリストでも、どう言う素晴らしい大宗教家でもです、人力に見切りを付けて神力に縋ると言う所までは、どういう大宗教家でもやっている。我情我欲を捨てて、神力に縋った訳です。其処迄は出来られるけれども、もう恐れ入りましたというて言われたのがね、人力自ずから湧くと云う事だと云う事です。それは人間が一ぺん神様になって、そして又人間に生まれ変わって、この世で布教しておられるんだ。
人に教えを説いておられるんだと云う風に説明されたそうです。私もそれを聞いてから新たに、あの御教えの素晴らしい事を感じましたね。その事をね、こう云う風な詩に表しとられます。「人の世の 遠き旅路を辿り来て 神の教えに合楽の里」と惟は初めて自分が合楽に見えられた時の事でしょうね。永い間の人生の 中に、初めて神の教えに触れたとこう云う意味でしょうね。
「金光の神の霊に お取次ぎ頂く親子 今日ぞ合楽」
「天地(あめつち)の恵み 廻りて金光の光を受けし 和賀心かな」
之まではいうならば、御自分の心境でしょうね。之から心境を詠にしてお られる訳でしょうね。
「有難や 人と生まれて神となり 神なりの人に戻りて道を説く親」
之は私の事を表現されたんでしょうね。
「有難や 人に生まれて神となり、そして人に戻りて道を説く親」
と、今いう人力に見切りをつけて神力に縋った、神力に縋って神様になり、そして人に戻 って道説く親と云う事なんですね。
「神のお姿 かくやと見たり、神の声 かくやと聞きぬ 示現せし親」
之なんか素晴らしいですね。又詠としても。神様のお姿と云う物は、こういう人を神様というのであろうかとね、神の声と言うのはこういう御教え、こういう声ではなかろうかと思うたちゅうんです。
「神の御姿かくやと見たり、神の声かくやと聞きぬ、示現せし親」
所謂合楽示現の話を聞かれたんでしょう。だから此処に示現、示現せし親。こう云うおかげを示し現わしておられる親だと言う風にしておられます。こう言うなら、如何にも私が生神になった様な、それこそ御神徳を受けとる様にあるけれどもです、まあ言わば私の場合は形だけの事ですけれども、けれども形だけですけれども、言うなら神様が天地を自由にする程しのおかげも下さるし、人間の幸福の条件のそれこそすべ手を合楽に集めて下さるし。
私の心の中にもです、もうそれこそこんなに心の有難い状態と云う物が、自分でも訳が解らん位に有難くなられるし、之が言うならば、一寸した御神徳の手本だ、見本だと云う風にゃ思います。ですからならそう云う物を頂いた私の信心を皆さんがです、此処二十五年の私の信心を思うて下さって、そう云う物が何時どういう時にどう言う信心から生まれて来たかと云う事は、私の言うならば何時もお話をするお話を聞いて下されば、ははぁと解る訳です。
親に対する神様に対する、人に対する物に対するね。言うならば神様の一切のものに対して御物として頂き、一切の事柄に対して御の字を付ける、御事柄として頂く 困った事とか、嫌なものとかじゃないのです。一切を有難く頂いて行く、言うならば愈々成り行きを大事にさして頂くと云った様な、私の信心。まあそれが合楽の信心の真になっていると言うても良いでしょう。そう云う生き方、惟は間違いはないからこそ言うなら倍力、たった之位な信心しか出来んけれども、倍力所ではない。
こういうおかげを事実に示し現しておると云う事がね、私は今日の御理解の内容だと思のです。神は向こう倍力の徳を授ける。そんなら一生懸命参りさえすれば良いかと云う事では決して無いと言う事である。神様の下さるものに対する一切を御ものとして頂き、神様の下さる、私に下さる所の様々な難儀な問題であっても、それを修行として、御事柄として受けると云う様な生き方。
そう云う生き方を百の力でそれをなさして貰うならば二百も三百ものいや、もっと沢山のお徳を神様は下さるんだ。今日は皆さん唯神に向かうと云う事は、只参りさえすれば神様に向うとる様に事に思うておる人も沢山ありましょうけれども、そうではない事が解ります。神様の御心に適う事からに打ち込まねばいけない。向かわなければいけないと云う事を今日は聞いて頂きましたですね。
どうぞ。